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★名勝 二見浦とは
☆二見という地名の由来
伊勢神宮(内宮)から流れてくる五十鈴川は、二見を挟むように東西二手に分かれて伊勢湾に注いでいます。そのため二見という地名はおそらく“二水(ふたみ)”に由来すると思われます。
いつからか、それが景勝地ゆえに何度も振り返り見る“二見”に変わり、倭(やまと)姫(ひめ)命(みこと)がその昔、この地に寄られた際、その美しさゆえに二度振り返りご覧になったためと言われるようになりました。
☆二見浦を形成する三大要素
1.興玉(おきたま)神石(しんせき)と太陽信仰
夫婦岩のある岬は立石崎と呼ばれ、古来、神の世とつながる神聖な場所と信じられてきました。本来のご神体は、今は海の中に沈んでしまいましたが、夫婦岩の沖にある興玉(沖魂)
神石です。興玉神石は、東の彼方にある神々の国、常世の国からやってくる神が最初に寄り付く聖なる岩とされています。夫婦岩は、興玉神石の門石(鳥居)です。夫婦岩の間に張られている大注連縄は、神の世と俗界とを隔離する結界の縄と言われています。神々は興玉神石により、下界によみがえるわけですが、東の空が明るく輝き、太陽が昇る瞬間に、まさに神が太陽としてよみがえる姿を人々は感じたのだと思います。そして、その一番象徴的な瞬間が、夏至の太陽です。夏至には夫婦岩の間を通して神石の真上から、一年で一番力強い太陽が昇ります。
伊勢神宮の別宮・磯部の伊雑宮では、夏至の田植えという伝統を守っています。また、伊勢の米どころ・御絲のお百姓さんは今でも田植えの前後にお参りに来るように、立石崎は古来より五穀豊穣を願い、夜から朝へ、冬から春へ太陽の恵みの再生を祈る太陽信仰の場所なのです。そして、それは日本民族の先祖神である天照大神への信仰につながっていくのです。
2.立石浜と禊(みそぎ)(垢離(こり)
つい最近まで夫婦岩のある岬が立石崎、夫婦岩は立石と呼ばれていました。夫婦岩周辺の浜を立石浜と言い、常世の国から打ち寄せる波が最初に届く聖なる浜と信じられてきました。神仏に参拝する時、水を浴びて身心を清めることを垢離と言い、立石浜は神宮の垢離場とされてきました。
今でも神領民は正式に両宮を参宮する時は浜参宮と称し、この浜で身を清めるのがならわしです。そして、この禊の浜が後の明治15年、最初の海水浴場の開設につながっていくのです。
3.二見と製塩
倭姫命が現在の伊勢神宮の地に向かう途中、二見浦に立ち寄った際、佐見津日女(さみつひめの)命(みこと)が出迎え、堅塩を献上したと言われています。以来、二見は伊勢神宮の塩を焼いていくことになるのですが、その佐見津日女命をお祀りしているのが、表参道の南にある堅田神社です。昔は立石崎のところから堅田神社の前、現在の役場の裏あたりまで海が入り込んでいたと思われ、その周辺で盛んに製塩が行なわれていました。立石崎への参拝者が通る道筋に塩を焼くための塩屋の一つがあり、その脇で店を始めたのが二見浦の旅館街の始まりです。
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★二見(興玉(おきたま)神社とは
立石浜にある二見興玉神社は、明治30年(1897)に江村・大江寺の鎮守神、興玉社を地に移転神遷したもので、始めは茶屋が氏神とした三宮(しゃぐ)神社の境内社でしたが、明治43年(1910)3月末日をもって両社を合併し、無格社・二見興玉神社と改称しました。ここにお祀りされているのは、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の道案内を務めたとされる猿田彦大神で、古来、交通安全、善導の守護神として広く信仰されています。また、この境内には、少し先になりますが、海の神様である綿津見(わたつみの)大神(おおかみ)をお祀りしている龍宮社があります。寛政4年(1792)5月15日、大風水害に襲われた江村では、数多くの死傷者と家屋損壊の被害に見舞われました。そこで大江寺住職尊実(そんじつ)和尚は、今後は災害から逃れるため竜神を勧進し(つまり、海の神様の憤りを鎮める目的で)、江川河口にお祀りしましたが、これが現在の二見興玉神社境内東側の位置に移転され、龍宮社と呼ばれるようになっています。そして旧暦5月15日、郷中(ごじゅう)施(せい)と称して、村民は仕事を休んで昼食を共にしながらその日をしのぶ習慣ができ、現在まで続いています。二見興玉神社がある場所は、従来からの太陽の恵みと身心の再生を願う太陽信仰と禊の場でもあり、それが本来の二見浦の歴史的存在意義だったわけですが、そこへ猿田彦大神と綿津見大神が寄り集まって、現在の二見興玉神社が成り立っているというわけなのです。
 
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★天の岩屋とは
西の参道突堤のほとりに東面の岩窟がありますが、この岩窟は古くから石神((しゃくじん)とも申され、宇迦乃(うがの)御魂(みたまの)大神(おおかみ)(豊受大神とも称される)を祭った三宮神社のご遺跡であり、日の出に対して日の入り(隠れられた処)、天照大神と豊受大神という関係に伝えられております。
二見興玉神社が日の神拝所のご由縁によって世人は天の岩屋とよんで崇拝しております。
  
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★夫婦岩(めおといわ)とは
夫婦岩は、その700mほど沖にある興玉神石(おきたましんせき)(神様が寄り付くと言われているが、安政の大地震・津波で海中に没した)の門石、すなわち鳥居の役目をしています。大きい岩、つまり男岩のほうは立石と呼ばれ、高さ9m、周囲約40mで、小さい岩、つまり女岩のほうは根尻岩と呼ばれ、高さ3.6m、周囲約9mあります。根尻岩は大正(1918)の台風で倒れ、その後修復固定されました。この両岩を「夫婦岩」と呼ぶようになったのは明治以降のことで、それまでは「立石」と呼んでいました。今でも壮年以上の地元の人々は、愛着をこめて「立石さん」と呼んでいる人も少なくありません。両岩の間に張られている5本の大注連縄は古式(注連縄打ち)によって調製され、1本の重量が40kgで長さが35m、立石(男岩)に16m、根尻岩(女岩)に10mが巻かれ、その間の長さは9mあり、神の世と俗界の結界の縄と言われています。
この大注連縄は、5月5日、9月5日、12月下旬の年3回張り替えられています(夫婦岩大注連縄張神事)この大注連縄奉献の意味は一切の不浄を祓って日の大神及び興玉神石遙拝の鳥居に献る古い習わしであります。
4月〜8月の間には両岩の間から差し昇る朝日の姿を拝むことができますが、両岩の中央から太陽が昇る夏至の日には夏至祭が行なわれ、身心の禊を願う人々が白衣を着て海水に身を浸しながら日輪を拝む姿が見られます。晴れた日には霊峰富士をシルエットに朝日が昇る光景を見ることができ、まさに荘厳の一言です。さらに、冬の満月も両岩の間から昇りますが、日の出とは一味違った感慨を抱くことができる幻想的な光景です。
 日の出の位置
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★禊(みそぎ)(浜参宮)とは
古来より伊勢神宮領に住む人々は、神宮に関する行事に参される場合は、必ず事前に禊をし、心身を清める慣わしがあります。この地の神領民に限らず、遠方から神宮参拝に来られた方も、神宮参拝前に、ここで禊をされていきました。このように二見浦(立石崎)は禊の場(垢離場(こりば))として、古くから人の信仰を集めてきたのです。
ただ、二見興玉神社がこの地に建てられてからは、夏至祭を除くと実際に海水に浸かって禊をすることは少なくなり、二見興玉神社に参拝し、身を清めるためにお祓いを受けることが一般化していきました。これを「浜参宮」と言います。行事に先立ち、二見興玉神社へご参拝、興玉神石周辺より採取した無垢塩草でお祓いを受け、心身の清めと奉仕の無事を祈りこめるのがならわしです。

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★二見かえる(蛙)とは
明治の中頃まで夫婦岩(立石)は、海中の興玉神石及び日の出の遥拝所として、正面に大三(だいさんぽう)が置かれていました。その三方の中に小注連縄やお供え物と一緒に蛙が供えられていました。どうして蛙がそのように扱われるようになったかには諸説がありますが、夫婦岩の東方に見える飛島に伝わる白蛇伝承や、昇る朝日を竜神にたとえた信仰等により、蛙をお供えするようになったのではないかと思われます。そして、興玉神社の祀神でもある猿田彦大神(さるたひこおおがみ)が天孫降臨の際に瓊瓊杵(ににぎのみこと)(天照大神の孫)の道案内をされたという神話があること、さらに蛙の語呂が「無事帰る」につながることなどと相俟って、いつしか蛙が「猿田彦大神のお使い」のように独立して扱われるようになっていったものと思われます。
その後、祈願の際に、また、願いが叶ったお礼に蛙の置物が奉納されるようになり、現在では、「無事帰る」とか「落とし物や出ていったお金が返る」とかという語呂合わせで、お守りとして親しまれるようになっています。また、大注連縄奉曳に先立って、「二見かえる音頭(子供かえる踊り)」が行われます。これは二見浦のマスコット的存在である「二見かえる」に由来します。伝統芸能です。
 
         
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★大注連縄の調整(注連縄打ち)とは
夫婦岩に張られる大注連縄作りは、昔は1月11日、5月11日、9月11日に興玉社(後に二見興玉神社)の蔵座敷で作ることとされていたが、現在では江区会所前で年3回行なわれています。大注連縄は、全国の方々の御奉献と氏子の方々の手によって調整されます。各組から当番が一人ずつ出て、朝から藁を集め、数人の縄作り熟練者の応援を得て5本を昔ながらの手法で作り上げます。特に「伝統行事 二見大祭しめなわ曳」を前にした時期(7月第1日曜日に なることが多い)は、「名勝二見浦 夫婦岩大注連縄の会」も加わって大々的に行なわれています。特別な道具を使ったり、調子を合わせるために独特の掛け声「ゾーエイ」をを掛け合ったりして作り上げます。この掛け声は、神社仏閣などを建てることを指す「造営」という言葉に由来しているのではないかと思われます。
 
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★二見例大祭とは
二見興玉神社を夫婦岩前に奉遷された明治30年(二見興玉神社という名称は明治43年以降のもので、それまでは興玉社)以来続いている猿田彦大神・宇迦乃(うがの)御魂(みたまの)大神(おおかみ)を祭るための例祭で、例年、7月14日、15日に執り行なわれています。
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★伝統行事 二見大祭しめなわ曳とは
伝統行事二見大祭しめなわ曳は、年三回張り替える夫婦岩の大注連縄五本を木製奉曳車に載せ、木遣音頭・法螺貝の音に合わせ、奉曳車に繋いだ綱を曳きながら夫婦岩表参道を練り歩き、二見興玉神社へ奉納する伝統行事です。
大注連縄奉献の意味は、一切の不浄を祓って日の大神及び興玉神石遥拝の鳥居に献じ、家内隆昌・延命息災・縁結び・交通安全・海上守護を願うことにあります
伝統行事二見大祭しめなわ曳は、地元の人たちを始め、県内外の多くの人たちが参加し、楽しめる「参加型」・「個性型」の全国的に通用する夏の風物詩となる祭りとして創り上げられました。大注連縄奉献の意味は、一切の不浄を祓って日の大神及び興玉神石遥拝の鳥居に献じ、家内隆昌・延命息災・縁結び・交通安全・海上守護を願うことにあります。
大祭の前後においては、6月には古来からの慣習である行事に関わる前の心身を清める禊(浜参宮)式を執り行い、7月には大注連縄作り(注連縄打ち)に貢献・試し曳を行い、9月の夫婦岩大注連縄張神事に奉仕します。
開催日は、曜日関係なく、例年執り行なわれています二見例大祭宵宮の7月14日としております(荒天の場合は延期)。大注連縄奉曳は、「ヨーイトコ、ヨーイトコセー」の木遣音頭・法螺貝の音に合わせ、木製奉曳車の車輪を軋ませる「椀鳴り」音を響かせながら出発し、「エンヤー」という威勢のいい掛け声とともに夫婦岩表参道を練り歩きます。夫婦岩表参道最後の約200mでは、海岸に打ち上げられる花火が出迎える中、曳き手が全力疾走する「エンヤ曳」で祭りは最高潮に達します。この時、奉曳車の車輪は煙を吐きながら地響きを立てて唸ります。
二見興玉神社鳥居前に到着後、奉曳車に載せた5本の大注連縄は、法螺貝の演奏の中、曳き手たちによって二見太鼓の迎える本殿へ運ばれ、木遣音頭とともに奉納されます。
  
★練りとは、
☆ 曳き手たちが綱を上下に振って曳行(ゆっくり・激しく)。
☆ 奉曳車を曳く2本の綱を挟んで向かい合った曳き手たちが、綱をもって左右道いっぱいに
広がたり、お互いに相手を激しく押し込む真ん中でぶつかりあったりする。
勇壮で迫力があります。
★エンヤ曳とは、
夫婦岩表参道最後の直線(約200m)を、木遣唄の合図の元、曳き手が一斉に走って勢いをつけて曳くことです。重い奉曳車のため、走ると事故の危険性もあります(転んで将棋倒しなる、奉曳車に轢かれるなどの危険性があります)。梃子係の操縦の手腕に掛かるところです。エンヤ曳は、高齢者・子供・泥酔者は遠慮願うのが基本となっております
  
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★奉曳車とは
しめなわ曳で大切な大注連縄を載せる車が木製の奉曳車です。奉曳車の車輪は、直径1m 厚さ35cm 重量約250kgで、熱帯アフリカ原産のブビンガという木で作られています。この木は、強度・耐久性・弾性・接着性に優れ、折れや裂けに対しても粘りがあり、特に害虫に強いという特性があります。また、車軸は、長さ3mの樫の木でできています。
★椀鳴りとは、
奉曳車の車輪と車軸がこすれて出る音が「椀鳴り」と呼ばれます。このように回転を受ける部は円錐状のお椀状になっています。法螺貝のようなボォ〜という音が鳴って細かな振動が綱に伝わってくるのが良いとされています。良い音を鳴らすのはなかなか難しく、奉曳車係(大工)の手腕に掛かっています。摩擦を緩和させるために、車輪と心棒の間にチョークを入れたりします。
★試し曳とは、
☆奉曳車の組み立て、点検、椀鳴りの具合の確認などをします。
☆曳綱係にとっても、曳き手としての重要な予行演習となります
 
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★木遣(木遣唄)とは
木遣とは、もともと『大きな岩・木材を大人数で掛け声をかけながら引くこと』という意味です。大人数で力を合わせて行う運搬には、指揮者の号令が必要であり、この号令の役目を担うのが木遣です。木遣唄で全員の士気を高め、曳き手はそれを受けて力を合わせる『日本人独特の労働唄』といえます。木遣唄に対して、引っぱる曳き手の合唱を『受け』というそうです。『よぉ 〜いとこ、よぉ〜いこ せぇ〜』が受けとなります(これは、『よい所、よい所伊勢』と言われております。)。もともと純粋に重く大きい岩石、大木を運ぶ時に音頭をとるための手段として唄われていた木遣唄ですが、城や神社・仏閣などの大きな建物が造営されるに伴い、造営そのものが慶事的なものと認識されるようになり、木遣唄も『おめでたい唄』へと変わってきたようです。また、この木遣唄を基にして作られた伊勢音頭が御(おん)師(し)を通じて、『アリャリャン、コリャリャン』『ヤットコセーヨーイヤナ』の全国各地の民謡の祝い唄に波及していきました。
名勝二見浦茶屋木遣保存会は、昭和17年の第59回神宮式年遷宮時のお木曳(川曳)に木遣として参加され、第60回・第61回と3回ご奉仕された小川喜一先生(故人)の元、第61回時に正式結成されました。 結成後、毎月2回の練習をもって活動しております。
小川喜一先生(故人)が生存中に、平和を喜び・めでたい歌詞をと「七七七五」で作詞されたものを継承しております(約400詞)
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★木遣子の幣(へい)とは(采(ざい)と呼ばれる団もあります)
『幣』という呼び方は、御幣(幣束の敬称)からきております。二見浦茶屋木遣保存会は、自分達で木を選択し、削り、1枚ずつアイロンをかけて伸ばし、束ねております。幣の材料となりますのは、柳が中心となりますが桧の場合もあります。従来は1本あたり約365枚を束ねておりましたが、現在は少しでも重さを軽減する為280〜300枚を束ねております(強風時のある海辺の活動が多いため)。二見浦茶屋木遣保存会の活動は、伊勢神宮内宮領川曳だけでなく、二見大祭しめなわ曳・年3回の夫婦岩大注連縄張神事など多岐にわたります。
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★木遣子の衣装
二見浦茶屋木遣保存会の衣装の龍神は、
二見興玉神社境内竜宮社(りゅうぐうしゃ)に由来しております (二見興玉神社とは参照)
 
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★御塩(みしお)殿(でん)とは
二見の海岸沿いにある社殿で、伊勢神宮内宮の所管社の一つです。御塩殿の境内では、伊勢神宮に供えるための「御塩」が今でも昔ながらの製法で作られています。この「御塩」は、五十鈴川の河口付近にある「御塩浜」で、毎年土用に干満潮の差を利用して濃い塩水をとり、それを境内の御塩汲(くくみ)入所((いれしょ)に運び、その塩水を塩焼所にて鉄の平釜で焚き上げて荒塩にします。さらに御塩殿で三角形の土器につめて焼き固め堅塩((かたしお)にします。
  
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★蘇民(そみん)将来(しょうらい)子孫(しそん)家門(かもん)とは
天照大神の弟されている素盞鳴(すさのおの)命が根の国へ下る際、暴風に会い一夜の宿を蘇民将来の兄に求めたが、裕福な暮らしをしているにもかかわらず拒み慈悲の心の厚い貧しい弟の蘇民が温かく迎えて一夜の宿を貸し粟の粗飯を差しあげました。素盞鳴((すさのおの)命はアハサの国から暴疫鬼来することを察し蘇民に茅(たがや)の輪を作って家にかけさせたところ、翌日になると蘇民の一家を除いて一村みんな疫病の被害にあいました。素盞鳴((すさのおの)命は、別れる時疫病が入らないようこれからも「蘇民将来子孫」としてかかげよと言われ、それからというものこの地では災いを防ぐため「蘇民将来子孫家門」と書いた札の注連縄を1年中飾るようになったと言われています

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